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続きの準備が出来ていないのですが、自分を追い込むためにも上げてしまいます。相変わらず迷走気味で、今回も長め。
書きたかったシーンの一つがようやく出てきた、といった感じです。


。。。 
 
 忙しなく鳴いている蝉たちは、今日も静寂を知らない。
 葉に覆われた桜の木の下で照りつける太陽から逃れているというのに、じわりと湧き出た汗がリンの背中を伝う。
 麦わら帽子のつばの先には、青の絵の具を水で溶かした様な広い空。その中心で一際存在感を主張している積乱雲は、周囲の雲を飲み込んで、もくもくとこちらに迫ってくる様だ。
 スマートフォンの電源をオンにして、時刻を確認する。そんな単調な作業を三回ほど繰り返したところで、ようやく待ち合わせの相手がやってきた。

「お待たせ。……早かったね。待った?」

 約束の時間まではまだ少し余裕があるけれど、随分と前から待っていた様子のリンに、レンは申し訳なさそうに眉を下げる。徒歩で移動しなければならないリンに合わせてか、今日は自転車を置いてきたようだが、肩で息をしているのを見るところ、ここまで走って来たのだろう。

「ううん。おばあちゃん家から近いし、そんなに待ってないよ」

 ふるると首を横に振りながら答えると、レンはほっとした様に微笑む。どうやら、昨日一人だけ遅刻してきたのを余程気にしているらしい。今日は二人での約束だし、ちょっとくらい遅くなってもリンは構わないのだが、少しでも早く着く様に気を回してくれたのだろう。
 暑かっただろうに。蜜色の髪の隙間から覗くレンの額にはしっとりと汗が滲んでいて、なのに、近場だから必要ないとでも思ったのか、荷物の類は見られない。リンがバッグから水筒を取り出して差し出すと、レンはほんの少しだけ戸惑うような目をして、でも相当喉が渇いていたのか、奪うように受け取った。
 ごくごくと喉のなる音が、蝉の合唱に静かに溶ける。骨ばった首筋だとか、大きく突き出た喉仏に目を奪われていると、水筒から口を離したレンが不思議そうな顔で「何かついてる?」と首をかしげた。
 そんなに喉が渇くなら水筒くらい持ってくればよかったのに、だとか、走ってまで来てくれてありがとう、だとか、言いたいことは他にもあったけど。開きかけた口からこぼれた言葉は、結局「別に」の一言だった。
 自分だって、喉が渇いているのかもしれない。だから、こんなにも声が掠れるんだ。
 胸の奥に染み出る甘く痺れるような感覚を押し流すように、返された水筒に唇をつけて、リンも一口麦茶を飲んだ。

 ちょっと休憩したい、というレンの申し出に応じて、暫くの間、二人並んで桜の樹に背を預ける。
 さわさわと葉を揺らす風はむっとするような熱気を含んでいて、心地よさなんか全然感じられない。空に浮かぶ入道雲は、また一つ雲を飲み込んで、体積を増したのではないだろうか。
 二分くらいの間、そうやってただぼうっと空を眺めていると、流石にここじゃ大して疲れも取れないと気付いたのか、レンは諦めた様に「そろそろ行こうか」と日差しの中へと足を踏み出した。
 木陰から飛び出して、レンの隣に並ぶ。てっぺんからだいぶ傾いた位置にある太陽は、まだまだこれからだとでも言いたげに刺すような日差しを浴びせてきて、そのまぶしさに思わず顔を顰めた。



 リンの元にメールが届いたのは、昨日の夜の事だった。
『明日の夕方ごろ、ちょっと付き合ってくれない?』
 たった一言だけの簡素な文面。夕方なのは昼の暑さを避ける為だろうが、直接会っていたにもかかわらずわざわざメールで誘ったのは、他の友人たちを抜きにして出かけたい、という思惑でもあったのかもしれない。
『いいよ。どこに行くの?』
 別に毎日六人で行動する必要はないし、特に予定も入っていないから。送信ボタンを押すと、折り返しのメールは一分と待たずにリンの元に届く。
『神社。昔よく一緒に遊んだとこあるじゃん。あそこに行こう』
 ああ、あそこかぁ。懐かしい場所を指定されて、リンの口元も自然と緩んだ。
 レンの言う神社は、リンの祖母の家から徒歩二十分ほどの裏山に静かに佇んでいる。いつも薄暗くて人の気配がないせいか、リンと同じくらいの歳の子どもたちはあまり近寄りたがらなかったのだが、何をしても咎められないその場所はまるで秘密の隠れ家の様で、リンとレンにとってはお気に入りの遊び場だった。
 小さな自転車を石階段の下に残し、どちらが先に頂上まで昇れるかを競争して、鳥居をくぐったところでゴール。落ち葉の降り積もった境内で追いかけっこをしたり、どんぐり拾いをしたり、二人っきりのかくれんぼをしたり――――。
 本殿にこっそり潜り込もうとした時は、流石に神主さんに見つかって怒られたけど、髪の薄いそのおじいさんは、リンたちが遊びに来ているのを見かけるといつも笑顔で迎えてくれた。
 ミキやユリたちも知らない、思い出の場所。皆に内緒でこっそり誘いたくなるレンの気持ちも、何となくわかるような気がした。

 途中売店に寄り道をして(二人で回し飲みしていたら水筒の中身があっという間に空になってしまうと、レンがスポーツドリンクを買っていったのだ)、田んぼと畑に挟まれた細い道を登っていくと、裏山の入口はすぐそこだ。
 長い石階段を上った先にある鳥居をくぐって、拝殿へと真っ直ぐに伸びる石畳を踏んだ瞬間、しっとりとした空気が肌を包む。
 まるで、この朱色の「門」を境に、別の世界へと迷い込んだようだ。
 空を覆い隠すように生えた樹は、灼熱の陽光からこの地を守るかのように、のびのびと枝を広げている。うるさくて敵わなかった蝉の鳴き声でさえ、神聖な音楽と錯覚してしまうほどだ。
 所々表面の剥げ落ちた薄鈍色の拝殿は、あの頃と変わらず水面の様な静けさを湛えていて、その手前に鎮座する狛犬の目だけが、まるで来訪者を品定めするかのように、ぎろりとこちらを睨んでいた。
 ただいま。物言わぬ石像に向かって、心の中で声をかける。狛犬は相変わらず静かにリンを見下ろしていたけれど、さわわ、と頬を撫でた優しい風に、おかえりと言われたような気がした。

 参道脇の手水舎で両手を清め、拝殿の階段を上る。ひょっとしたら、この神社でちゃんとお参りをするのは初めてかもしれない。初詣は別のお寺に行っていたし、リンにとってこの神社は、やはり「秘密の遊び場」だったから。
 賽銭箱に投げ入れた小銭は、入り口の板にぶつかると、コトンと小さな音を立てて落ちる。手を合わせる直前、一体何をお願いしようか迷って――――結局、当たり障りのない願いを頭の中で唱えた。
 最後にもう一度だけ頭を下げると、リンは横階段を一息に飛び降り、茶褐色の土に靴跡をつけた。
 昔は勢いをつけないと飛び越せなかった三段分が、今では片足を伸ばして軽くジャンプするだけでも十分足りる。軽くスキップするようにして拝殿脇の樹の前で振り向くと、後ろからついてきたレンが「随分機嫌が良さそうだね」と苦笑していた。

「そういえば、今年もここでお祭りやるんだってさ」
「へぇ。いつ?」
「15日だから来週だな。リンも寄っていけるんじゃないの?」
「そうだね……せっかくだし、久しぶりに見ていきたいなぁ、お祭り」

 どこか物寂しい雰囲気を持つこの神社が最も賑わうのが、夏の盆祭りの時期だ。
 元々は山の神を祀る行事だったのだが、いつの間にか鎮魂の意も加わったらしい。境内にやぐらを建て、提灯が吊るされ、人々は力強く響く太鼓の音に合わせて輪になって踊る。……もっとも、子供の頃のリンにとっては、山のふもとの広場に立ち並ぶ屋台や打ち上げ花火の方が楽しみだったのだが。

 去年から祭りの準備を手伝うようになった事、今年も力仕事を頼まれていて、ほんの少しだけ気が重い事を一息に話した後、レンはふいに黙り込んだ。
 狛犬の台座に手をついて、神妙な面持ちで俯く。それは昨日、リンが質問攻めにあっていた時に見せた表情とよく似ていて――――。
 リンの口が言葉を形にするよりも早く、レンが顔を上げた。躊躇うように視線を彷徨わせ、やがて決意を抱いた瞳でリンを見つめる。そして。

「あの、さ……前の彼氏って、どんな奴だった?」

 カサリ――。楠の枝が風に揺れたみたいに、頼りなく言葉が落ちた。

 箱の中に小さく折りたたんでしっかりと仕舞っておいたものを、再び引きずり出されたような心地だ。
 これが乱暴に蓋をこじ開けて好き勝手にかき乱す様なやり方だったら、いくらでも非難できたのに、レンの表情は訊いてしまったことを後悔しているようにも見えて、リンの心に戸惑いを広げる。

「……レンも、気になるの?」
「そりゃ……幼馴染、だし」

 本当に、それだけなのだろうか。
 なら、どうして「幼馴染」と言葉にする時、そんな風に寂しそうな表情をするのだろう。

「……見た目はかっこよかったよ。勉強もそこそこ。告白してきたのは向こうだけど……別れようって言ったのは、わたしの方」

 心の中がもやもやとざわつく。ただ質問に答えているだけなのに、こんな風に後ろめたい気持ちになるのはどうしてだろう。
 相手がレンだから? それとも、あまりいい思い出のない話だから?

「リンはそいつの事……その、好きだった?」
「……よく、わからない」

 細い糸が心臓に絡まって、縺れていくみたいだ。
 無意識にワンピースの胸元を掴む。糸のはずし方を、リンは知らない。


 中学生なのだから、コイビトくらいいるのが当たり前――。女の子たちの間で交わされる「常識」の渦にリンが飲み込まれるのは、あっという間の事だった。
 告白してきたその男子学生に関して、リンは「隣のクラスの子」程度の認識しか抱いていなかった。真っ赤に染まった頬や真剣な表情から、冗談の類ではない事は直ぐに察せられたけれど、リンの胸には戸惑いばかりが沸く。
 結局、少し考えさせてほしい、と猶予を貰う道を選んだのだが、この学校の恋愛ネットワークはそこかしこに張り巡らせてあるらしい。校舎の片隅で起きたこの小さな出来事は、さざ波のように静かに、大きくなって、他の女子の耳へと届いた。
 わからないのだったら、試しに付き合ってみればいい。そうしているうちに、相手のことを好きになるかもしれない。
 彼女たちが耳元で囁く言葉は、今考えてみると随分と無責任だ。けれど、ラズベリーをたっぷり散らしたクリームパイみたいにふわふわと甘く、時に酸っぱい空気に溶け込もうと必死になっていたリンは、少女たちの勧めを飲み込んで、例の少年と付き合うことを選んだのだった。
 この事を双子の親友に伝えると、ミクは他の女の子同様目をキラキラさせて今後の経過を報告するよう念を押してきたのに対し、クオは無表情に微かな嫌悪を滲ませて、「女子の考えることってわからねぇ」と小さく吐き捨てただけだった。
 「リンちゃんを他の男に取られてヤキモチ焼いてるんだよ」とミクは笑っていたけれど。その時の彼の言葉は、小さな棘となってリンの心へと突き刺さった。
 休み時間に廊下で会話をして、休日にデートに行って――――たった一度だけ、唇を重ねて。
 そんな、甘酸っぱいクリームパイの様な「恋愛ごっこ」をどれだけ続けても、リン自身が彼の事を「好き」なのかは最後までわからなかった。
 ごめんなさい、の一言を絞り出すのにどれだけ苦しい思いをしただろう。残ったのは結局、真っ赤なラズベリーの酸っぱさだけだ。


 狛犬に背を預けながら、リンは自嘲するように足元に視線を落とした。
 リンの学校は中高一貫で、彼とは今でも学校内ですれ違うことがある。別れた直後に比べたら気まずさは薄らいだと思うし、他愛のない会話を交わすことも出来るようになった。
 けれど、時々思い出したかのように、喉の奥が酸っぱくなるのだ。彼には既に恋人がいて、リンがいつまでも気に病む必要はないのだが、中途半端な気持ちのまま彼を弄んでしまった事に変わりはないのだから。

「……あ! そういえば、レンの方はどうなの? 好きな人!!」

 くるりとレンの方に顔を向けて、わざとらしい位に明るい声を出す。これ以上、あの話を続けたくはなかった。
 レンは、ひょっとしたらリンよりも酸っぱそうな顔をしていたかもしれない。あとから来た質問にびっくりして、その面影はすっかり消えてしまったけれど。

「は……僕?」
「そう。わたしばっかり訊かれるのは不公平でしょ。……ねぇ、いるの?」

 覗き込んだレンの瞳は、南の海の様に、静かに揺れる。リンの色と似ていると言われるけれど、リンは昔からレンの方が綺麗だと思っていた。

「それ、は…………」

 ゆらゆら、ゆらゆら。
 透き通っていそうで底が全然見えない瞳が、すっと右側に逸らされた。何か隠し事をしている時のレンの癖だ。

「いるんだ! 誰? わたしも知ってる子!?」
「い……っ、誰だっていいだろ!」
「えー、ずるい! わたしはちゃんと答えたのに!」
「それはそれ、これはこれ!」

 ミキたちにからかわれていた時と同じ様に頬をほんのりと染めて、レンは頑なに答えるのを拒もうとする。
 そんなに嫌なのだろうか。
 確かに、もう子供ではないのだから、何でもかんでも共有できるとは思っていないけれど。リンが胸の中に仕舞っておいた思い出をそっと打ち明けた様に、レンだって心の中で温めている想いを、こっそりと教えてくれたっていいのではないだろうか。
 小さく芽生えた不満は、見る見るうちに根を張って大きくなった。ムキになったように、リンは口を尖らせる。

「いいもん、後でミヤ君あたりにこっそり訊いちゃうから。ミヤ君ならきっと何か知ってるだろうし」
「なんでそこであいつが出てくるんだよ!」
「だってレンが教えてくれないんだもん。いいじゃない、誰にも言わないから!」
「ばっ…………、あのな、僕は――――!」




 唸り声に似た音が、上空で響いた。



 驚いて空を見上げた顔に、ぽつりと一粒しずくが落ちる。ぽつ、ぽつり―――…。
 地面に落ちた小さなシミは瞬く間に土を黒く染め上げ、湿り気を含んだにおいが空気を満たした。
 突然降り出した雨に、リンとレンは反射的に駆け出す。出かけるときは天気が良かったから、傘は持ってきていなかった。……当然、レンも。
 逃げ込んだ拝殿の賽銭箱の前まで戻ると、二人はほぼ同時に息をついて、その場に座り込んだ。お互い視線を合わせて、どちらともなく苦笑する。
 思わぬ横槍に言い争いは中断したが、流石にここで再開する気にはなれない。

「しばらく雨宿りするか」
「……うん」

 雨が止む気配は、当面の間なさそうだ。


 世界は、霧の様に白く薄い膜に覆われていた。
 蝉の合唱はいつの間にか弱くなり、絶え間なく地面を叩く雨のロングトーンが、静かに、でも力強く響き渡る。
 太陽が隠れた所為か、空気は一段と涼しくなったような気がする。邪魔になってしまった帽子を外して傍らに置くと、撫でるように通り過ぎていった風にレンがくしゃみをした。
 この帽子のおかげでリンは殆ど濡れなかったが、レンの髪は水分を含んで重くなっているし、Tシャツの肩の辺りも濡れて色が濃くなっている。服の方はどうしようもないが、髪くらいは乾かさないと風邪をひいてしまうだろう。
 ハンドタオルを手渡しながら「やっぱり、出かけるなら最低限の荷物は持った方がいいんじゃないの?」と指摘すると、レンは困ったように片眉を下げて「女子と違って男はカバンなんか持ち歩かないんだよ」と苦笑した。そういうものなのだろうか。
 寄り添うように座りながら、空を眺める。少し首を傾ければあっという間に肩がぶつかってしまいそうな、けれどじっとしていれば決して触れることはない距離。
 昔は手を繋ぐどころか、軽く抱き合う位はどうってことなかったのに、今はこれが「幼馴染」として許せるギリギリのラインなのだろう。大人に近付いた男女としては当然の事なのだろうが、ほんの少しだけ寂しい。

「そういえば、前もこんなことあったよね」

 並んで空を見上げているこの状況に既視感を覚えてリンがぽつりと呟くと、レンの方も思い当たる節があったのか、微かに目元を細める。

「……ああ、かくれんぼ中に夕立になったんだっけ。雷凄いし、リンは見つからないし、大変だった。最終的にリンの泣き声で隠れ場所が分かったんだよね」
「うっ……だってレン、いつまで待っても見つけてくれないんだもん!」
「あはは、流石に賽銭箱の下に隠れてるとは思わないって。よく入れたね」

 レンは笑いながら背後を振り向く。
 賽銭箱の下には子供一人がギリギリ入れるくらいの脚があり、その隙間に身を滑り込ませたリンは、すぐ近くをパタパタと駆けるレンの足元を覗きながら、見つからない様に静かに笑いをこらえていた。
 だが、楽しんでいたのもつかの間、今日と同じように突然夕立がやって来たのだ。
 かくれんぼの最中だから自分からのこのこと出ていくわけにもいかなくて、リンはレンが探し当てるのをじっと待っていた。けれど、レンは止む気配のない雨と時折混ざる雷鳴に探し回るのを諦めてしまったらしい。途方に暮れた様な声で「リン……」と呟いて、この拝殿の階段に座り込んでしまったのだ。
 目の前で背中を丸めているレンの姿に、流石のリンもこれ以上かくれんぼを続けるのは止めようと考えた。地面を這ったまま後ずさり、窮屈なこの隙間から抜け出そうとしたのだが、それと同時に雷が鳴り響き、驚いたリンは身が竦んでその場から動けなくなってしまったのだ。
 恐怖と、不安と、心細さと。頭の中はぐちゃぐちゃで、なのに雷鳴はおさまる気配がなくて、リンの目に涙が浮かぶのにそう時間はかからなかった。ぎゅっと目を閉じ、両手を固く握りしめてガタガタ震えていると、すぐ近くでじゃり、と砂を踏む音が聞こえた。
『やっとみつけた』
 優しい声に目を開けると、ほっとしたように笑いながら自分を覗き込んでいるレンの顔があって。抑え込んでいた寂しさと湧き上がる安堵に、リンの視界は滲んだ。

「……結局、あの後大泣きするリンを僕が慰めて、夕立が過ぎるのを待ってたんだっけ」
「そんなことないもん、レンだって怖がってたじゃん!」
「ええ~、それはリンの勘違いなんじゃないの?」
「違う、絶対怖がってた!」

 本当は怖くてそんなこと全然覚えていなかったのだが、一方的にからかわれるのも納得がいかなくて、リンはレンを睨み付ける。その視界の端で、薄暗い雲の隙間から落ちる一筋の光を捕えて―――…

「――――ひゃあっ!?」

 フラッシュをたいたかの様に空が白く染まり、一際大きい雷鳴が轟いた瞬間、リンは隣の身体へと縋りついていた。
 固く閉じた視界の外側で、触れ合った部分の熱さと規則的に弾む心音がじわりと伝わってくる。恐怖に塗りつぶされた思考が冷静さを取り戻すにつれ、その感覚は鮮明になって――リンは慌てて身を離した。

「――ッ、ごめ……っ!」

 離れていく熱に名残惜しさを感じる間もなく、高く鳴り響く雷の怒声。
 殆ど反射的に、今度は腕へとしがみつくと、頭の上からはくつくつと笑いをかみ殺す軽やかな音がこぼれ落ちた。

「……何笑ってるの」
「くくっ……いや、リンは相変わらず雷が怖いんだなぁって」
「う……うるさい! 怖くなんかないもん!」
「じゃあ離れてても大丈夫だよね?」
「だっ……だい、じょう――――ッ!」

 バリバリと空を引き裂く音、地面から伝わってくる大きな振動――――再び白く染まった視界に、リンは思わず身体を縮こまらせた。……と、その時。
 ふわり、と背中に手が回された。
 控えめながらもぐっと引き寄せられて、リンはレンの腕の中にすっぽりと収まる。突然のレンの行動に、リンは声を出すことが出来ない。

「……大丈夫だよ」

 静かに、でもしっかりと包み込むような声が身体越しに伝わって、鼓膜を震わせる。
 じわじわと熱を帯びていく頬。きっとこれは、触れている部分から伝わる熱だけが原因じゃない。
 ドクンと跳ねた心臓に、リンは微かに身をよじる。けれど、思いの外レンの腕の力が強くて抜け出すことが出来ない。……いや、抜け出したくないのだ。
 恥ずかしくて、胸が苦しくて仕方がないのに、どうしようもなく安心する。
 地面を揺らす程の雷鳴が襲い掛かってきても、不思議と怖いとは思わなかった。




 どのくらいの間、そうしていたのだろうか。
 唸るような音はいつの間にか遠ざかり、雨足も大分穏やかになった様な気がする。

「……レン」
「ん?」
「もう、大丈夫だから……」
「……うん」

 離して、とは言えなくて、大丈夫、と遠回しに訴える。レンにはちゃんと伝わったはずだ。
 なのに、その言葉とは裏腹に、背中に回された腕の力が弱まる気配はない。
 もう一度大丈夫、と言おうと開いた口からは、甘さを溶かした様な吐息が漏れただけだった。
 頬が熱い。唇が震える。
 しっとりとした熱と汗に混じる懐かしいにおいに、音も立てずに溶けてしまいそう――――。
 まるで別の生き物になったように激しく暴れまわる心臓は、どれだけ宥めようとしても、一向に言うことをきいてくれなかった。


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